冷蔵庫と烏龍茶と解けない公式





「・・・う。おい、豪!」
「え・・・?」
「ここ、この公式。ちゃんと聞いてんのか?お前が教えて欲しいって言うからわざわざ来てやったのに」
「あ・・・すまん、すまん・・・」
 きっと睨みつけられ、肩をすぼめる。そんな豪に、一つため息を吐いて巧が視線を教科書に戻す。慌てて追いかけるように手元の教科書へと豪も視線を移した。
「だからな、これがこうで・・・こうなるんだ」
 さらさらと教科書に要点を走り書きする巧のシャープペンの先を追いかけながらも、豪の頭はまったく別のことを考えていた。
 公式よりも、教科書の文字よりも。巧のその指から目が離せない。
 身体全体から受けるイメージよりも、実際には細く繊細な指先。だけど決して弱弱しくなどなくて。この指が球を握り締め、自分の構えるミットへと投げ込むのだ。あの、掌に熱い衝撃を、しびれるような感覚を残す、一球を。初めて受け止めた時から忘れることなんてできなかった。他の誰にも捕らせたくなどない。自分が。自分が・・・。
「・・・い。おいって!」
 すぱんと頭を叩かれた。
「た、巧?」
 突然のことに半ば呆然と見遣ると、先ほどよりも明らかに怒った巧が頬杖をついていた。
「あのな。聞く気がないならオレはもう帰るからな」
 いい加減にしろよと、つり上がった眦にぶんぶんと首を振る。
「ある。あります!もちろん!」
「本当かよ。それにしちゃぁ、さっきから上の空なんだけど?」
「す、すまん・・・」
 しょんぼりと肩を落とした豪に、しょうがない、と巧がぱたりと教科書を閉じる。
「巧・・・?」
「のど乾いた」
「はい?」
「だから、休憩。豪も少しは頭を冷やせ」
 それとも何?このまま帰って欲しいのか?ふいっと横を向いた巧にがたたんと、立ち上がった。その際に、脛を机のどこかにぶつけたらしい。思わず涙目になりかけたのをぐっと堪えて叫んだ。
「すぐ持ってくる!」
 部屋を飛び出し階段を駆け下りる。台所にある冷蔵庫の扉を開けて、流れ出した冷気に小さく息を吐いた。まずい。ものすごくまずい。何を考えてるんじゃ、オレは。公式よりも目の前の巧が気になって仕方がないなんて。教えてもらってる身としては最低じゃ。巧が怒るのも無理はない・・・。って、え?
「それはまずいんじゃ・・・」
 いや、だからさっきからそう言うとる。
「じゃなくて!」
 混乱する思考に、頭を横に振る。少し振りすぎたかもしれない。くらりとした感覚に思わず額を押さえた。だが、効果はあったらしい。一つの考えが浮かんだ。
「巧が・・・気になる?」
 いや、気になるのは昔からじゃ。今更取り立てて言うことのほどでもない・・・はずじゃろ?
 納得しかけて、でもどこか釈然としない思いに首をひねる。
 違う。そんなことじゃない。そんなことが問題なんじゃない。
「何じゃ・・・?」
 何が違う?今までと一体・・・。
 唸るように考え込んだ豪の脳裏に、先ほどの指先が閃いた。どくん、と音を立てた心臓に、訳も分からず耳まで真っ赤になる。
「・・・は?」
 指?指がどうしたって言うんじゃ・・・。触りたいとかそんな・・・。
「わわわっ・・・いや、違う。違うんじゃ!そんなこと・・・!」
 考えてなんかいない。考えてなんかいない。考えてなんかいない!
「考えてなんかいないんじゃー!!!」
「な、何よ、急に」
「わぁ!」
 急に近くで聞こえた声に、飛び上がらんばかりに驚いて振り返ると母の節子が立っていた。自分によく似た瞳が驚きで丸く瞠られている。
 しかし、母親だからなのか。年の功なのか。言葉も出せずだらだらと冷や汗を流す豪よりも先に落ち着きを取り戻したのは節子だった。
「冷蔵庫。開けっ放しはやめなさいっていつも言ってるでしょう?」
「え・・・あ・・・ご、ごめん」
 慌てて中からよく冷えた烏龍茶を取り出し、ばたんと扉を閉める。
「開けっ放しにすると電気代ももったいないし、環境にも良くないのよ?」
 それぐらい知らないわけじゃないでしょうに。呆れたようにため息を吐いて節子が台所に立った。ざぁーっという水音がする。かちゃかちゃと食器を洗い出した後姿を見遣り、手の中のペットボトルの冷たさにふっと我に返る。
「いけな・・・」
 自分はどれぐらいあそこにいたのだろう。すっかり冷気の逃げ去った冷蔵庫の温度を考えると結構な時間あのままだったような気がする。巧は怒っているじゃろうか。きっと、怒ってるに違いない。ただでさえ機嫌は自分のせいで下降気味なのだ。
 慌てて戻った部屋のドアを勢いよく開けた。
「すまん、巧!烏龍茶でええか・・・」
「おう、豪!」
「え・・・」
 最初に飛び込んできたのは、満面の笑みを浮かべる吉貞だった。ひらひらと手を振りながら笑う。
「サンキュー。サンキュー。オレもうのど乾いちゃってさ」
 ありがとなー。
 嬉しそうに豪の手にある烏龍茶も奪い、さっさとコップに注ぎ分けていく。唖然としたままいまだ固まったままの豪に、巧がちらりと視線を投げかけた。
「何か、お前のいない間に来たぞ」
 オレも勉強会まぜてくれって。
「だってさぁ。沢口に聞いたら数学の勉強だって言うじゃん?オレ、今度のテストかなりやばいんだよね」
 旅は道連れ世は情けって言うじゃろ?へへっと笑って吉貞が烏龍茶をあおる。
「豪?どうかしたのか?」
「あ、いや・・・うん。別に。勉強・・・するか」
 なんだか身体の力がいっきに抜けたような、そんな気がした。力なく笑った豪に、吉貞が頷く。
「そうじゃ、そうじゃ。早いところ教えてくれ」
「お前はおまけ」
「あーひどい!原田くんたらそんなひどいこと言ってるともてなくなるわよ!」
「はい、はい。いいから少し黙れ」
「何じゃ、何じゃ!この美少年、吉貞さまを一体何だと・・・」
 投げやりに返事をした巧に、吉貞が唇を尖らし抗議をする。それに構わず教科書をばさりと開いて巧が立ったままの豪を見た。
「何立ってんだよ」
「ああ・・・うん」
 促され巧の向かいに腰を下ろす。吉貞が増えた分だけ幾分か狭くなった机の上に自分も教科書を広げた。
「じゃぁ、まずはここからな。これがこうでこうなると・・・」
「ま、待て。待ってくれ、原田・・・!」
 すっと公式を解き出した巧に慌てたように縋る吉貞の声を聞きながら、小さく一つため息を吐いた。忘れよう。とりあえずは。今はまだその方がいいと思う。うん、そうじゃ。その方がいい。脱力感から何とか抜け出し、教科書の公式に思考をシフトする。



「巧、ここは?ここはこうなるとどうなるんじゃ?」
「ああ、それか。それはな・・・」
「おおい、待てって。オレを、オレを置いていくなぁ〜〜〜!」










END




誕生記念に久々にお話一本書きました。
今回はぐるぐる豪くん。けっこう恥ずかしい思考回路に私も恥ずかしいです。なら書くなって?ま、まぁ、それはね・・・書きたいものってふっと来るものですから。笑って見逃してやってくださるとありがたいです。しかしそれにしても・・・私の書く豪って指フェチなんでしょうか?けっこう指にこだわります(笑)


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