天に咲く花、地に眠る花


[8]




この世にあるどんなものよりも美しいもの。

そんなものがあるなんて、僕は少しも知らなかった。






「・・・ミー、ジョミー・マーキス・シン」

「・・・あ、はい」

厳かな声で名を呼ばれ、慌てて姿勢を正す。窓から金の光が差し込む教会の一室で、少し古ぼけた額に縁取られた人の背丈ほどもある大きな鏡越しに、マザー・イライザが眉を顰めていた。

「私の言葉を聞いていましたか?」

「申し、訳ありません・・・天使長様・・・」

「地上に下りてからのあなたの務めはよく果たされています。しかし、一体どうしたというのですか・・・今のあなたは心ここに在らずといったように見えますよ」

まるで裁きを下す女神のように、静かに通る声にジョミー自身戸惑いの中にいた。

どうしてこんなにもあの人が気になるのか。
瞳を閉じても消えることのないあの美しい真紅の瞳の輝き。
思い出すだけで震える胸にどうすればよいのか見当もつかない。

答えず拳を握り締めたジョミーに、マザー・イライザがふっと瞳を和らげた。

「ジョミー、あなたは特別な存在なのです。そのことを忘れてはなりません」

それだけ告げると、仄かな光とともにマザー・イライザの姿が消える。何の変哲もないただの鏡に戻ったその表面がやけに鈍く光った。



天使と言えど、神の御使いとして地上へ下りている間、それと分からないように人と人との間に紛れ込む。それは、ほんの短い一時の夢のようなもので。いずれは天へと還る存在であることには変わりない。
だけど稀に、そのまま地上へと居ついてしまう者もいたりする。もちろん、それは本当に稀なことであったし、天上の楽園への反逆者として追われ続ける運命になってしまうのだが。かつてそんな天使もいたと聞いたことがあった。しかしそれは触れてはならない禁止事項だったから、その天使がどんな天使だったかなど知る由もないけれど。

それでも、地上に下りた今、思うのだ。

あの美しい天上の楽園と決別することさえ厭わなかったその天使は。

何を見、何を思って地上に残ったのだろう・・・と。



時計の針を見れば、時刻はすでに三時を回っている。ああもう、こんな時間だと少し焦りながら上着を手に取り急ぐが、教会の入り口を出た所で呼び止められた。自分を呼び止める相手なんてここには一人しかいない。時間がないのに・・・と内心焦りながらも渋々振り返ったジョミーを、キースが入り口側の壁にもたれながら見ていた。

「何?何か用事?」

「どこへ行く?」

「どこ・・・って、散・・・歩に行くんだ」

「だからどこへ、だ」

「散歩・・・だもの。特に決まってないよ。それに僕がどこへ散歩に行こうとキースには関係ないだろう?」

四六時中一緒にいなければならない訳ではないのだから、と小さく笑ったジョミーにキースがその薄水色の瞳を細めた。何かを確かめるようなその視線に、こくりと咽喉が鳴る。妙に緊迫した数秒後、キースがため息を吐いた。

「・・・あまり遅くなるなよ」

「・・・分かってる」

背後の視線を気にしながらも、駆け出した。一分一秒でも今の自分には惜しい。もっと早く動けばいいのに。地を蹴るしかない足がもどかしくて。

逢いたい。

美しい紅玉の瞳に浮かぶ、どこか儚げな色に、ただそう思った。










END




ファンタジーですから。はい。


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