楽しいオシオキ * * *
冬の木の葉海峡は、低く垂れ込める雪雲を映して青灰色に濁っていた。波が高く、遠く沖の方まで海面がうねっているのが見える。その向こう、目を細めてよく凝らせば、ぼんやりと対岸の影らしき物が浮かんでいるのが分かった。 戦時中、対岸の様子を探るための拠点として崖ギリギリに造られたこの要塞は、今は同盟国となって久しい彼の国を肉眼で見ることができる唯一の場所だった。 視線を手元に引き戻し、少年は小さくふぅ、とため息を吐いた。雑巾を手に室内を振り返る。机も、棚も、ベッドも、窓も、ドアの取っ手もみんな綺麗に拭き清めた。床にはチリ一つ無いし、今は花の無い花瓶もピカピカしている。ベッドカバーは洗濯したての物を皺に気を付けてピンと張った。天蓋から下がるカーテンも美しいドレープを描いている。スリッパはちゃんと決められた位置に、邪魔にならないように半分だけ頭を出してベッドの下に入れた。暖炉にはいつでも火を入れられるように、湿気っていない新しい薪を綺麗に重ねてくべた。 「よし」 一つ一つ目で点検して、彼は満足げに頷いた。 彼の名前はナルト。この屋敷で働くメイドだ。ここに買われて来てからそろそろ一年になる。目下の仕事は、誰が使う当ても無い、ただ無数にある客室をローテーションで掃除していくこと。毎日毎日同じ仕事なので、もう手馴れた物だった。 せっせと体を動かしていた火照りが引いて、ナルトはぶるっと身を震わせた。どっしりとした石造りの壁は、時に夏でも寒く感じるほど暖かみに乏しい。戦後しばらくしてここを買い取った今の主人が、内装などを少しも直さなかったためだ。暖炉に火が入っていない客室は、氷のようなピンと張り詰めた冷気で満ちていて、長く居たら本当に凍えてしまいそうだった。 「う〜さぶッ」 ナルトは雑巾をバケツに突っ込むと、背中を丸めて手を擦り合わせた。この部屋はこれで完了。とっとと次へ移るに限る。ナルトはバケツを持とうと腰を屈めた。その時、僅かに腰がサイドテーブルに当った。否。当ったと言えるほど確かな手ごたえは無かった。掠ったと言った方が正しいかもしれない。────しかし。 コトンと、何かが絨毯の上に落ちた。 ぎょっとして振り返って、ナルトは凍り付いた。 毛足の長いウッドブラウンの絨毯に、真鍮の鈍い金色が映える。側面に波を模った装飾が施されたコの字型のそれは、何処からどう見ても、間違い無くサイドテーブルの引き出しの取っ手の形をしていた。 「マ、マジで……っ!?」 彼は慌てて跪き、恐る恐るそれを拾い上げた。それから、首を回してサイドテーブルを見上げる。憐れ、取っ手のあった場所には二つのネジ穴が開いているだけだった。 「ヤバイ……俺ってば壊しちゃった…!?」 呟いてみて、ますます事の重大さに青くなる。何故こうも自分は不注意なのだろう。ナルトは手の平の取っ手を見下ろして震え上がった。いつもそうだ。彼が掃除をしていると、だいたい決まって何かしら壊す。それは大抵今のように、ちょっとぶつかったり触ったりした時に起こった。 「俺ってば何か呪われてんのかな……」 泣きそうになりながら、ナルトはどうするべきか懸命に考えた。正直に言えば、きっとメイド頭から怒られて、今夜のご飯が抜きになって、それからご主人様の部屋に呼ばれてお仕置きされる。それは嫌だった。とにかくどうしても嫌だった。 でも、と彼はちょっと落ち着いて思う。手の中の取っ手は、それ自体が壊れているわけではない。ただ外れてしまっただけだ。もし、もし仮に見た目だけでも元通りにすることができたとしたら。簡単なことだ。ただ、あのネジ穴に差し込むだけでいい。もしそうして誰にもバレずに済んだとしたら。 「……………………」 少年はごくりと喉を鳴らした。大丈夫。簡単なことだ。 ナルトは取っ手を持ち直すと、息を止めてネジ穴に近付けた。小刻みに震える手を空いた手で叩いて叱咤する。そうして彼は、ゆっくりと、少しずつ、差し込んでいった。微かに、穴と金属が擦れる振動が伝わってくる。少しして、ゴツ、と取っ手が一番奥まで入って止まった。 安堵に思わず溜め息が漏れる。だが本番はここからだ。 ナルトは今度は用心深く、手を離していった。小指から順に、そっと上げていく。最後に残った人差し指と親指を、息を止めて同時に離す。 「…………………」 取っ手は落ちなかった。 少年が二つの青い目でじっと見守る中、それは、何事も無かったかのように大人しく元いた位置に収まっている。ナルトは肺に溜まった息を長く浅く吐き出し、それから注意深く立ち上がった。 「……………」 バケツを手に、中腰でそろりそろりと離れていく。そぉっとドアノブを回して、廊下に出る。振り返って確認すると、取っ手はきちんとサイドテーブルの一部になっていた。 「………大丈夫みたいだってば……」 ホッと安堵の溜め息を吐くと、ナルトは静かにドアを閉めた。何とか誤魔化せたようだ。次にこの部屋を掃除する人には悪いけれど。縁起の悪いことは忘れてしまうに限る、と、ナルトは無理矢理気を取り直して隣の部屋のドアを開けた。 一週間ぶりに開いた部屋は、僅かだが埃臭かった。三年先輩のサクラの話によると、少なくとも彼女がこの屋敷で働くようになってから、一度も誰かがこの屋敷を訪れ、客室を使用したことはないそうだ。ではいったい何故こんなに沢山の客室があるのか。何故こんなに頻繁に無駄な掃除をしなければならないのか。初めてその話を聞いた時に尋ねたら、彼女は首を振ってもっともらしく言った。「そんなこと私達メイドに分かるわけ無いでしょ。ご主人様の言い付けなんだから、その通りにしてれば良いのよ」と。なるほど、確かにその通りだ。 窓を開け、雑巾を絞り、ナルトはせっせと体を動かし始めた。次第に再び体が火照り、意識は仕事に集中していった。 その頃隣の部屋では、真鍮製の鈍い金色をした引き出しの取っ手が、コトンと絨毯の上に落ちた。 どうしてこう、自分は運が悪いのだろう。 臙脂色の絨毯を見詰めて、ナルトは心底自分の運命を呪わしく思った。 一日の仕事が終わって、みんなと一緒に食道で遅い夕食を取って、さあ後は寝るだけと安堵した矢先に、ナルトはメイド頭から呼ばれた。すっかり昼間のことを忘れていた少年は、いったい何の用かと油断しきっていた。そんな彼に、メイド頭は主の部屋へ行くようにと言ったのだ。その時になって、ようやく彼は事態を理解した。まただ。また、この時が来てしまった。この一年でもう数え切れないほど通った主の部屋への道筋を辿りながら、少年は己の不運さを嫌と言うほど噛み締めたのだった。 今、彼の手の平には良く見知った金属片が乗っていた。側面に波を模った装飾が施された、真鍮製のコの字型のそれ。言うまでも無い、昼間彼が客室に閉じ込めた忌まわしい出来事の元凶であった。 「それ、何だか分かるよね?」 きし、と椅子を軋ませて、この屋敷の主が長い足を組み直した。彼の名前はカカシ。ナルトには詳しいことは分からないが、前の大戦中に財を築いた所謂戦争成金だとサクラが教えてくれた。その姿を初めて見た時、ナルトは正直ぎょっとしたものだ。彼は左目に眼帯をしているのだ。戦争によって失ったらしいというのがメイド達の噂だが、本当のところは分からない。もともとの顔の造作が整っているだけに、それは少し奇怪な印象を人に与えた。片目での生活は何かと不自由なのか、彼は部屋を出る時はいつも杖を突いているのだが、それがより一層彼を変わり者に見せ、事実彼は他の人とは違った価値観で生きているらしかった。 その彼が、椅子に深く腰掛けたままナルトを見ている。俯く少年に言葉は無い。 「昼間何となく気が向いてさ、今日掃除したっていう客室を覗いてみたんだけど………」 そこで言葉を切って、彼は意地悪く口元を歪めた。そうして、手にした杖で少年の手の平に乗せられた引き出しの取っ手をカツンと叩く。ビクリとナルトが肩を震わせる。 「───これが落ちてたんだよね。どういうことだか分かるかな、客室掃除担当のナルト君?」 唇を噛み締めて、まただ、とナルトは思った。 普段は執務室に閉じこもって何やら良く分からない書き物をしているカカシであったが、時々思い出したようにメイド達の働き振りを見に来ることがある。けれどそれはサボっていないか監視するというよりは、暇潰しにただ屋敷内をぶらぶらしているだけのようだった。メイド達もメイド達で、今まで一生懸命働いているからといってお給料が上がったりご褒美を貰ったりした験しが無いので、別段気にせずにいつも通りに仕事をこなす。ところが、ナルトの場合は少し違った。主の見回りは、大抵ナルトが何かヘマをした時にやって来ることが多かった。 「………………」 「口があるなら何とか言いなさい」 またカツンと、手の上の金属片を杖の先が打った。いつも同じことを繰り返している。そう思いながら、かと言って黙っている訳にもいかず、ナルトはボソボソと弁明した。 「………ちょっとぶつかったら、勝手に落ちたんだってばよ……」 カカシが短く鼻で笑った。 「でも、お前がぶつかったから落ちたんでしょ?」 「で、でも、ホントに軽くだったんだってば」 「でも落ちたんでしょ?」 「…………………」 カカシとの会話はいつも、段々言葉の輪が狭くなっていって、気が付いたら言うべき言葉がなくなっている。優しい声音で追い詰められて、最後にはやっぱり自分が悪かったんだと思ってしまう。それは罠だとサクラは言ったけれど、彼はその罠から抜ける術を知らなかった。 そして今も、いつも通り彼は言葉を失った。 ナルトはしょんぼりと肩を落とした。残された道は、主が望む言葉を紡いで、自らの手で引き金を引くだけ。 「……………ご、ごめんなさいってばよ……」 首が痛くなるほど深く俯いて、ナルトは主の気配を窺った。目を上げるのが怖い。ここで目の前の男の顔を見たが最後、思い通りになるしかなくなることは分かっていた。 「本当に、いつもいつもしょうがない子だね、お前は」 ひどく優しい声音で言って、カカシはナルトを手招きした。そうして、俯いたままおずおずと歩み寄る少年の両手をそっと取る。 その感触があまりにも優しくて、ナルトは驚いて顔を上げた。少しいつもと違うと思ったからだ。けれど。 くすりと、カカシが笑った。 「それじゃ、オシオキだよ?」 ナルトはやっぱり罠に落ちた。 * * * 2へ
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